日本にニットが伝来したのは、南蛮貿易時代16世紀の頃です。
「メリヤス」という言葉はスペイン語のmedias(靴下)、ポルトガル語のmeias(靴下)から発生した言葉で、「女利安」「女里弥寿」という当て字が使われています。
なんと、水戸光圀(1628〜1700)の愛用した7足の靴下が国立博物館に現存しています。うち3足は絹製、4足は綿製で、海外製のようです。意外なことに、19世紀には手編みは江戸浪人、小禄の武士の内職として広まったそうです。靴下だけでなく、刀のつば袋、印篭下げなどを編んでいました。
当時、「めりやすというものは、のびちぢみありて、人の腕の大小あれど、いづれへもよくあうものなり。さらば、大小と莫(な)く合うという義にてあるべきや。」ということで「莫大小」という当て字を使っています。
横浜開港後は靴下の需要が増え、1871年西村勝三が東京築地に靴下の編機を据えた工場を作っています。
第1次世界大戦までは靴下の需要、特に軍需が伸び、それ以降肌着などの民需が進んでいき、産業としての形態が作られていきます。
外衣としてのニットの発展は第2次世界大戦後、洋装が進んでからのことです。

水戸光圀の靴下

武士が手にしているのは編針、手前には何やら股引のようなものがあります。

江戸市中でメリヤスを売る店の看板